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2010年9月13日月曜日

フランス人大家

敷金を返さない大家とか

(フランス人に負けないためのアドバイス)


まあ、日本人の築いてきた社会に日本人はもっと誇りをもつことが可能だと思い知らされる経験、といえば聞こえはいいものの、最近では、この手の大家、不動産屋との関係には、機関銃握り締めて「快感」といってみたい気持ちになることもしばしばです。

係争中なので、詳しくは書きませんが、全て終わったら、書きたいと思います。
果たして留学中に終わるのかは、自信がありませんが・・・


あえていえば、この留学の目的である

「国際化に対応するために必要な研究に従事」
「国際活動に必要な能力の育成」

という美辞麗句には、とうてい収まりきれない、魑魅魍魎の跋扈する異界で、如何にして生き残るのか、ということが求められるのが、フランス留学に伴う生活なのです。

・・・と、ここまで 書いて、大学の入学式を思い出しました。
学長はフランス人と結婚したフランスに関する研究に従事する方でしたが、入学式の式辞が極めて難解な上にひたすら40分間くらいしゃべり続けたことが、ニュースステーションでもとりあげられていました。

当時は、いいたいことはなんとなく分かる、程度で、ただただ、学長のいう「齟齬」の意識の谷底からその知的世界を垣間見るのが精一杯でしたが、今なら具体的体験によって理解することが出来ます。

(全文はこちら)

今日、いたるところで問題となっているあの「国際化」という言葉を真の体験として生きるためには、おそらく、相対的な若さとは異なる「驚き」への感性が必要とされます。国際的な相互理解などという美辞麗句に、間違ってもだまされてはなりません。
その言葉が美しく響くのは、観念の領域にすぎないからです。実際、具体的な国際性とは、野蛮と呼ぶほかはない不幸な推移を示している現在のコソボ情勢がそうであるように、無数の差異がまがまがしく顕在化される苛酷な空間にほかなりません。そこでは、たえず齟齬感や違和感の的確な処理が求められ、さりげなさを装った外国語での流暢な会話能力など、いかほどの役にもたちません。
国際的な交渉の場で要求されるのは、いま、この儀式の会場にはりつめているような緊迫感にたえつつ、いくえにも交錯する隔たりの意識を丹念にときほぐしながら、なお、言葉を放棄せずにおくという執拗さにつきております。その執拗さが差異への敬意を欠いた場合、「国際化」などという概念は、たちどころに抽象化され、意味を失うほかはありません。
大学も、たえずそうした抽象化に陥る危険をはらんだ環境だということを、あらかじめご理解ねがいたい。


「差異への敬意を失わないこと」も「執拗さ」も、ともに難しいということを、今になってようやく気づきました。ありがとう。蓮実先生。

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